おべんとう考

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先月から1ヶ月「おべんとう」にどっぷりと浸かった。と言ってもわたしがおべんとうを作った(というか詰めた)のは1回だけで、もっぱら展覧会に行ったり本を読んだり教えてもらったり…。おべんとうが日常にあった幼稚園の頃、中学生・高校生の頃を思い出し、いろいろなことを考えた。おべんとうは生活を映し出す。おべんとうの記録は「生きること」の足跡だと思った。

おべんとう展

obento exhibition

もう終了してしまった展覧会だけど、先月「おべんとう展」に行った。おべんとうをテーマにした展覧会ってどういうものだろう? テーマとしてコミュニケーションがキーみたいだけど、意識高い系になりすぎて等身大のおべんとうから離れてしまってないか? そんな期待と不安を胸に、okatteにしおぎの仲間たちと東京都美術館に向かった。

最初の展示は、おべんとう箱の歴史。江戸時代の美しい箱が並ぶ。酒器とセットになったものが多い。しめた魚や煮物、おまんじゅうなどの和菓子も詰められていたようで、日本人の食生活は江戸時代とさして変わっていないのだなと感じる。麗らかな陽気の中、現代のわたしたちと同じように桜の木の下でおべんとうを広げている江戸の人々のさざめきが聞こえるようだ。

次の展示は、おべんとうが生み出すコミュニケーションに着目した展示。作る人と食べる人のコミュニケーション。作りたいけど何らかの理由でそれができず(単身赴任など)、思いをプロに伝えてプロが代わりにおべんとうを作るというプロジェクト。(「あゆみ食堂のお弁当」)

娘と息子とお父さんの共同作業というのもあって、姉が弟のために毎日お弁当デザイン画を描き、お父さんがそれを元にお弁当を作り、弟(息子)がそれを食べるというのを何十日分も記録した展示もあって、これは圧巻だった。何十枚も写真が並ぶと、お父さんの腕がメキメキ上がっていくのがわかる。そしてデザイン画を描く小学生のお姉ちゃんが、地層や植物や地球や宇宙に興味があることもわかる。とてもダイナミックなデザインだ。何よりも、おそらくその日その日は苦労しながらも3人がとても楽しみながらおべんとうを作り食べていることがよくわかる。

ショートムービーが何本か上映されていたが、わたしが観たのは高校生の男の子が自分のおべんとうのカツサンドを作るもので、買い物から作り終わって食べるまで、ところどころお母さんのツッコミ(アドバイス)が聞こえてくるが、基本一人で買い物をしてカツを揚げてボリュームたっぷりのカツサンドを作って、ほおばって嬉しそうに笑うというものだった。とってもいい笑顔。そう、おべんとうは自分で作って自分で食べてもとても美味しいのだ。

普通の人たちの普通のおべんとうの写真がたくさん登場するが、どのおべんとうもとても美味しそう。「インスタ映え」とは真逆のおべんとうと写真で、嘘も見栄もない。じんわりと思いやりや愛みたいなものが浮かび上がってくる。展示会場の壁面に描かれていた、阿部了さん(全国各地の手作り弁当を取材して周っているカメラマン)の言葉が印象的だった。

お弁当っていうのは、自分の家の”素”のものを仕事の現場に持ってくること。ちょっと照れくさい部分が必ずどこかにあると思う。それを食べる瞬間に、ふと家に帰るというか”素”になる時間があるんじゃないかな。」阿部了さん(おべんとうの時間

おべんとうと日本人

obento and the Japanese

展示会に行くことになってから、面白い本があるとお友だちから教えてもらった。「おべんとうと日本人」で、著者の加藤文俊さんの言葉も、「おべんとう展」の会場に掲示されていた。

中身はもとより、容れ物、包み方、そして携帯の方法にいたるまで、時代の変化を受けとめながら、おべんとうは、今なお進化を続けている。

人を想い、無償の努力や創意工夫がつぎ込まれるおべんとうは、私たちの暮らしや生活を理解するための「入り口」になる。」(加藤文俊「おべんとうと日本人」)

「おべんとう展」は、おべんとうが取り持つパーソナルな人と人の繋がりにフォーカスし、それらを集めることで普遍的な「おべんとうと人の繋がり」にアプローチするものだった。対して「おべんとうと日本人」は、加藤さんの言葉通りおべんとうを「入り口」として社会の様相、ライフスタイルの変遷に迫るというものだ。読みながら、昭和のわたしの子ども時代を思い出し、色々なことを考えた。

おべんとうは移動する。徒歩がメインの移動手段だった時代の腰弁は、腰のカーブに沿って歩くのに邪魔にならないようデザインされていた。現代の腰弁ならぬビジネスマンのお弁当は、満員の通勤電車の中でもビジネスバッグにぴったり収まってくれる細長二段タイプ。女性の通勤用バッグにも収まりやすくて便利だ。

間取りの変化とともに、食事のスタイルも変わった。昭和40年台中頃までの「ちゃぶ台」がある生活では、家族が顔を合わせて朝ごはん、夜ご飯を食べるのが普通だった。ところが団地が登場する昭和40年台半ば以降は、ダイニングキッチンにちゃぶ台が置かれることはなかった。この頃から夫の帰宅は遅くなり(郊外に住むから通勤時間が長いし、高度経済成長で仕事も忙しいし、仕事帰りの飲み会も忙しい)、子供は夜も塾に通うようになり、家族が顔を合わせて夜ご飯を食べる機会も減少した。そんな中で、おべんとうはたとえその場にいなくても家族の存在を感じられる温かみのある食事という位置付けになっていく。

おべんとうには時間差がある。デパ地下のお弁当と違って、家から持って行くおべんとうは、既に詰め終わって包まれているから(わたしが中学生・高校生のとき毎日母に作ってもらっていたおべんとうはそうだった)何が入っているかわからない。昼休みにおべんとう箱のフタを開けて、初めて今日のおかずは何かがわかる。今ではもう覚えていないけど、ちょっと嬉しかったりちょっとがっかりしたりの毎日だったのだろう。「おべんとう箱をさっさと出しなさい!」「自分でおべんとう箱を洗いなさい!」とうるさく言われる毎日で、全部食べた日もあれば、残した日もあっただろうが、空になったりちょっと残ったりしているおべんとう箱を見た母は毎日何を思っていたのだろうか。この時間差を利用して、女性が男性に別れを告げるおべんとうを最後に作った、なんて話も聞いた。(おべんとうに「さようなら」とかいてあったらしい。)

現代のおべんとうは、かつてないほど人目に晒される(あるいは自分で晒す)。インスタ映えするおべんとうを作り、アップロードし、女子力が高いことをアピールしなくてはならない(と思う人もかなりいるみたい)。聞いた話では、インスタにアップするためにおべんとうを作り、食べないまま廃棄する人もいるらしい。まぁプロのフード撮影ではマニキュアのトップコートで照りを出したりするというから、写真はフェイクと思った方がいいかもしれない。

わたしの周りにはおべんとうの写真を毎日アップする友人が何人かいるけど、わたしはそれらのおべんとうが大好きだ。嘘がない。特に肉や野菜の焦げ目を見ると萌える。卵焼きの切った断面も好きだ。彩美しいお弁当も素敵だけど、昔懐かしい感じの「地味弁」も好きだ。おべんとうやごはんの写真。わたしがそれらを好きなのは、人の生活が感じられるからだ。レストラン、プロの仕事からは感じられない、普通の人の日常生活。そういうものがとても愛おしいと思う。

自分がインスタにアップするのは、備忘録代わりだったり、すごくいいからシェアしようという時だけど、自分のページを見たときに、自分が作ったごはんがズラッと並んでいたらいいなと思うし、記録として意味があるのかも知れないなと思う。

おべんとうを作る

bento

okatteにしおぎには食のタレントがたくさんいる。indigo というお料理教室を主催しているガッキーさんのおべんとうワークショップに参加した。

ガッキーさんは、毎日ご主人のおべんとうを作っている。主菜、卵焼き、野菜の副菜、果物、味噌玉(お味噌汁用)、ごはんが彩りよく二段組のおべんとう箱に詰められている。インスタやFacebookでそれらを毎日眺めているうちに「今日のおかずは何かな?」と主菜や副菜のおかずを拡大して見るようになった。おべんとう箱のフタを開ける時のちょっとしたワクワク感に似ている。

ガッキーさんのおべんとう作りは、とにかく段取りが素晴らしい。主菜の肉野菜炒めは、前日の夕飯を作る時におべんとう用の肉を小分けにしておきラップ、炒めるピーマンやパプリカを洗って切ってタッパーへ。副菜含めて、おべんとうに使うものを全てトレーにセットして冷蔵庫に入れる。これはとても参考になって、おべんとう用ではないけれど、次に作ることを決めているおかず用に洗った野菜をセットしてジップロックに入れておくと、本当に楽。トヨタを始めとするメーカーの生産現場のように、ちょっとしたムダをなくし、次の工程用に準備をしておくと調理(=アッセンブリー)はとてもスムーズなのだ。

その日の実習はフライパンで焼く卵焼き。オムレツや炒め物は作るけど、ピシッと形の決まった卵焼きは作れないので、これもとても参考になった。「美しいだし巻き卵を、銅の卵焼き器で焼かなくてはならぬ」という呪縛から解き放たれた(設定したハードルが高すぎて、結局やらずじまいだった)。さすがお料理教室をされているガッキーさん、菜箸一つで卵を巻いていく技を丁寧に教えてくれる。

あとは、ガッキーさんが作ってくれていた副菜を詰め、その場で作ってくれた主菜の肉野菜炒めを詰めておべんとうの出来上がり。一度詰めたものを、その場で開けて食べてしまったが、おべんとうにはお皿に盛ったごはんとは違う美味しさがある。

 

おべんとうも、毎日の食事も、日常生活の中の一コマだ。忙しい時はそれなりの内容だし、ちょっとがんばる時もある。だから、おべんとうの記録は「生きること」の足跡で、自分の、そして他の人のそんな記録を見るとちょっと胸が熱くなったりするのだろう。

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