龍泉洞と、野田の塩
田老で作り手さんを訪問し、お昼をごちそうになったあと、国道45号線を北上、途中内陸に入って岩泉に立ち寄り、チーズのように濃厚なヨーグルトを堪能し、龍泉洞に向かいました。
実は昨年春、美味しい食材を求めて宮城と岩手を放浪した際、龍泉洞に立ち寄りました。そのときは一人で、観光地だから人は多いだろうと思って行ったのですが、GW前の平日、どうも一人もお客さんはいないようです。当時はNHK「あまちゃん」も始まって間もない頃、まだブームにはなっていません。切符を切る係りの方に、「怖いんですか?」と聞いたら「怖くないです」という返事だったので、思い切って入ったのですが、何しろ狭い洞窟の中、元はコウモリも飛んでいたというところ、川はあるし滝まであるし、地底湖の水深なんと100メートルにもおよぶというこの鍾乳洞、やはり誰もいない中で一人で進むには背筋がぞくぞくっとします。それでも、「いやいや、八つ墓村の典子ちゃんは一人で鍾乳洞の中を平気で歩いていたじゃないか。それどころか、鶴子さんと亀井陽一さんは、鍾乳洞で逢引までしていたというじゃないか、きっと素敵なところに違いない」(「八つ墓村」が好きで、何回読んだか、観たかわからない)と思って入口から20メートルぐらいかな、吉永小百合さんの「大人の休日倶楽部」の素敵なポスターになった地底湖の前を通り過ぎ、鍾乳洞全容がわかる電光掲示板の前にたったところ、突然洞窟の中に声が響き渡ってびっくり、ご丁寧にいかにここが素晴らしいか音声が滔々と語るのですが、聞けば聞くほど怖くなり、「このまま中に入って一人で天変地異に遭遇したり、人やら物の怪やらに襲われたら戻ってこれなくなっちゃう」と、すごすごと入口に引き返しました。切符係りのおじさんだったかお兄さんだったか、怪訝な顔をしていたと思いますが、「怖いからやめた」というのも恥ずかしかったので、そそくさと目も合わさずに鍾乳洞を離れたのでした。
そんなわけで、龍泉洞と聞くと、ものすごい挫折感、やり残した感があったので、今回は友人達と一緒にたとえ他に人がいなくても、絶対に全コース巡ろうと決めていたのでした。
8月下旬の平日、夏休み中ということもあって、ファミリー連れで賑わっていたのにはほっとしました。鍾乳洞の中は予想していたよりも狭く、地底湖から湧く水が流れる音が轟々と響き渡り、洞窟内の高低差が180メートルもあり、高いところから地底湖の底のほうまで見渡せるように見晴台まであり、だんだん閉所恐怖症・高所恐怖症の傾向が出てきたわたしはスリル満点というより「早くこの行程を終了して出口に辿り着かなくては」と必死で、「へっぴり腰だー」と後ろで笑う友人達を無視して、ずんずんと順路を進んでいったのでした。
無事に出口に到着したときの感想は、やり残した感を克服した(あれを「克服」というのか?)達成感と、「去年入口で引き返した判断は正解だった」という納得感、そして信じられないほど太腿が筋肉痛になっていて、一体どれほどへっぴり腰だったのかと可笑しくなりました。
さて、45号線にもどって再度北上、青森県の八戸に向かいます。あまちゃんの舞台になった久慈の少し南に、野田村があります。野田は製塩で知られており、昨年のあまちゃんブームの最中には「のだ塩」はどこに行っても売り切れ。その「のだ塩工房」が野田の断崖の上の高台にあるのは知っていたので、そちらに立ち寄ったところ快く見学させてくださいました。
野田港の地下で採取された海水を高台の工房まで運び、塩釜で4日間、薪をくべながらじっくり煮詰めるそうです。薪を使うのは伝統的な手法とのこと。この間、木綿の布で丁寧に漉していきます。
あとから知ったのですが、この「のだ塩工房」、元は野田港にあったそうです。野田は震災の被害が甚大だったところ。のだ塩工房も大きな被害を受けながら、翌年2月、高台にある「国民宿舎えぼし荘」の敷地内に工房を新築して、伝統的な手法での製塩が復活したそうです。薪を使っての製塩は、重油に比べて時間がかかるけど、その分旨味が増すとのこと。そしてその薪は、津波で流された防潮林などの木材を使用しているそうです。
ところで、野田は江戸時代から製塩とともに製鉄も盛んだったと初めて知りました。中国地方に次ぐ日本有数の砂鉄の産地だったそうで、製塩に必要な鉄釜を容易に手に入れられる地の利があったようです。中国地方の製鉄といえばもののけ姫を思い出しますが、緑深い山と険しい海岸線の北三陸も、どこかもののけ姫の世界観と通じるものがあるように思います。