塩竈からはじまった北の玉手箱

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Shirahata

昨年末、仙台に出かける友人にあれやこれやおすすめの場所をあ挙げていたら、知らないうちに塩竈をすごく勧めていた。

実は、塩竈という場所を知ったのは東日本大震災のとき。東北にはまったく土地勘がなくて、塩竈と釜石の違いもよくわからないような状態だった。それが、当時勤務していた会社の同僚が塩竈出身で、震災のときにご実家がひどい被災をされ、その様子を聞いて思いを寄せているうちに、塩竈という場所がわたしの中に根付いていったようだ。

震災後、仕事で東北を訪れる機会は多かった。でも、大きな企業の広報を担当していたわたしが訪問するのは、仙台や盛岡にある県庁やその周辺の市役所など。訪問時は先方がいろいろ準備をしてくれているし、移動はすべてタクシー、実際に沿岸部の皆さんがどんな苦労をしているのかなかなか知ることができなかった。

震災後一年が経ったとき、その同僚が地元塩竈で追悼イベントに出席されるということで、お願いをして同行させていただいた。そのときに初めてお会いしたのが、同僚の妹さん。とても素敵な方で、すぐに仲良しになった。塩竈のご実家には津波が押し寄せ、わたしが初めてその地を見せていただいたときは、お庭の石灯籠も倒れ、津波で流されてきたのであろう動物の死骸も横たわっているような状態だった。(後で伺ったのだが、直後はもっと凄まじい状況だったらしい。)

そして、ここのお鮨が美味しいよと連れていってくれたのが「しらはた」。東京の人たちの間では「すし哲」が有名だけど、実は「しらはた」は「すし哲」のお兄さんだ。「ひがしもの」と呼ばれる三陸沖で獲れるメバチマグロがすばらしく美味しい。そして、わたしの大好物の煮穴子がやわらかくて素晴らしく美味しい。あの穴子は地元松島や石巻で獲れたものなのだろうか。

その同僚一家は昔から「しらはた」の常連なので、同僚も妹さんも、大将の息子さんの哲也さんとしみじみと震災時の話しをしている。同僚宅が海水に埋まって、お母さんが一人二階に取り残されたが、持ち前の明るさで乗り切られたこと。「しらはた」のビルにも津波が押し寄せたが、地下7メートルの杭がうってあったことで店舗が無事だったこと。ものすごい苦労をされたのだと思うけど、元気に一年後を迎えられたことに心から感謝しているようだった。しらはたにはその後何回訪れたかわからないが、ここの特上握りは本当に日本一だと思う。

Tetsuya-san of Shirahata
いつもカウンターで握ってくれる哲也さん

 

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お相伴で、二階の特別席に一度伺ったことがある。 大将が握ってくれた。

塩竈に行くとほぼ必ず訪れるのが塩竈神社。陸奥の国・一宮で、それはそれは立派な神社だ。塩竈様と志波彦様の二つの神様が隣り合っている。毎年七月の「みなと祭り」は有名で、二つの神様が御神輿にのって二百二段の表参道の石段を降り、塩竈港から船に載って松島湾を巡り、塩竈港に戻ったあと街を練り歩き、再び二百二段の石段を昇ってお社に戻られる。壮麗なお祭りだ。

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塩竃港に戻ってきた志波彦様

 

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二百二段の石段を昇ってお社に戻られる塩竃様と志波彦様

先日仙台に行った友人は、雪の中、塩竈神社を訪れたそうだ。 彼女は土地の空気とか、場所のエネルギーを感じ取る能力がものすごいのだが、塩竈神社が地元の人たちと深く結びつき、愛されていることを強く感じたそうだ。

ところで、その同僚の妹さんとお友だちになったことから、その後も出張で仙台を訪れるたび、彼女に会い、一緒に塩竈や石巻を訪れるようになった。共通の興味がたくさんあって、宮城県美術館にも数回一緒に行ったし、仙台の美味しいお店もたくさん教えてもらった。いつしか、東北に関わる仕事がしたいなぁと話すようになり、当初は市役所の臨時採用を受けようかなどと思っていたのだが、食べるものがあまりに美味しいから食の仕事をしようと思い立った。そのホップステップジャンプというか、一足飛びというか、かなり無謀だったかもしれないけれど、北の玉手箱の初まりは確かに塩竈だったのだと思う。

雪道の運転ができないわたしには、冬場に東北を訪れることは難しい。でも震災後五年を迎える今度の三月十一日、きっと東北のどこかの場所で、この土地に暮らす人たちの幸せと、自分の幸せを祈りたいと思う。