シェアリング・エコノミーではない? 循環するモノたち

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vintage or trash

昨年秋、『スイス人が教えてくれた「がらくた」ではなく「ヴィンテージ」になれる生き方』を読んだ。ちょうどその頃モノを色々手放す機会があり、どうやったらモノが寿命を全うできるんだろう?みたいなことを考える中で、長期投資を推奨する澤上篤人さんが勧めていたので手に取ってみた。

幸せなモノの循環ってなんだろう?

引っ越しとか進学とか、ライフステージやライフスタイルの変化に伴い必要なモノも変わってくる。私も昨年秋、仕事上の変化があって色々モノを手放さざるをえなくなった。色々探し回って苦労して手に入れたモノたち。それなのに、今は自分で使い切れないモノたち。このモノたちをどうしてあげたらいいんだろう?

廃品回収は嫌だ。リサイクルショップは、お金は手に入るかもしれないけど、何か嫌だ。モノが単に「中古品」として扱われるからかな。自宅のクローゼット、実家に置きっ放しにするのも何か違う気がする。モノが使われないままで放置されるのは気の毒だ。

結局、周りの人たちでモノを使ってくれそうな人たちに声をかけたら、モノたちは無事に引き取られて新しい場所で役割を果たしている。

シェアリング・エコノミー、循環する経済って?

とても気分が良くて、こういうのを循環する経済というのかなと思って調べてみたら、経済はお金を介在するものらしく、Airbnbみたいなものを指すらしい。わたしがやったことは、経済ではないらしい。シェアリング・エコノミーが注目されているのは、デジタルプラットフォームを駆使して、企業体ではなく個人が資産や時間を活用してビジネスができる側面が支持されているからだと思う。

GDP右肩上がりを目指し続ける現在の経済。シェアリング・エコノミーも、基本的にはお金を介在した価値の交換だ。今の私が興味があるのは、お金を介在しないモノの循環。介在するのは人と人の繋がりで、無意識のうちにモノへのそこはかとない愛情が生まれたりするんじゃないかと勝手に思っている。

「がらくた」と「ヴィンテージ」の間

さて、『スイス人が教えてくれた「がらくた」ではなく「ヴィンテージ」になれる生き方』で印象に残ったのは「がらくた」と「ヴィンテージ」の違い。スイスでは、人々が社会インフラの導入を検討するとき、「将来ゴミになるか?」「資産として価値を持ち続けるか?」で判断しているとのこと。たとえばどんなに不便でもレマン湖を横断する橋がかからない、などが挙げられていた。一時的な利益を取るか、数十年、数百年を見据えて考える(たとえば結論が出なくても、とりあえず作らないでおく)のか、など面白い視点があった。便利を極限まで追求する社会に対して「それは嫌だな」と思う人は多いと思うけど、経済活動をする企業体の視点はどうか? 「より良いサービス」は「便利」という視点に立つことがほとんどではないか? サービスを選択(あるいは不選択)する立場の私たちも、人間らしさの代償として不便さを受け入れられるだろうか?

ところで、新たに本を読むとき図書館で借りることが多いんだけど、当時新刊だったこの本は図書館になかったので、リクエストしたら買ってくれた。昔からあるシェアの仕組み、図書館は素晴らしい。といっても、人口減少で税収減が続けば行政サービスも減っていかざるをえないという。やっぱり人と人の繋がりが一番かもしれない。